大吉山 響けユーフォニアムの聖地

風景

2017年の5月、京都府宇治市にある大吉山に行ってきた。

確かこの時だった気がするけど、私は携帯を持たず旅に出ていた。

 

理由は携帯に頼らない旅をしたいという、格好良さすら感じる理由の他に、遊び半分でやっていた為替を観なければ、旅行が終わるころには儲かっているかもという、よこしまな理由も含まれていた。

その為、Wi-Fiも持たず、圏外となっている古いiPhoneが唯一頼りになるものだった。
何故古いiPhoneかというと、アラームとライトを使いたからだ。

何故、大吉山展望台かというと、響けユーフォニアムの1期8話で出てくるシーンが余りにも綺麗で、どうしても実際に観て観たかったからだ。

アニメの中では毎年6月5日に行われている、縣祭りの日に大吉山から街を見下ろすというシーンが描かれている。

私は携帯が無いのでグーグルマップは観れなかったが、どこかで手に入れたマップを手に大吉山を目指していた。

宇治駅から宇治橋を渡り、右に曲がり、宇治川を右に観ながらたどり着いた場所は興聖寺という場所だった。

いかにもな感じで、このお寺の裏には山へと続くがうねうねと続いており、間違いないと確信した私は坂道、山道を登り始めた。どれぐらい山を登ったか分からないが、歩いても、昇っても、大吉山展望台と書かれた標識のようなものは何も見えてこない。

あぁ、ここではないな、と確信に至るまでは随分と無駄に時間がかかった分、足は既にくたくたになっていた。

とにかく唯一役に立つ道具は携帯電話で、そこから知れる情報は時間のみ。
頭の中はあと、もう一堀すれば金鉱を掘り当てる事ができたが諦めてしまったという、よくあるあの絵だ。

あの絵から出る答えは、もしかしたら後少し昇れば何か見えるかもしれないという、何の根拠もない願いに頼った私は馬鹿でしかない。
私が登っていたいのは、まぎれもない、ただの山だ。

大きく分類すれば、大吉山も確かに山かもしれないが、私が登っているのは、名前も分からない、ただの山だ。
とにかく、獣なども出るのではないかと不安も出てきた為、ただの山は諦める事にし下山した。

その後、元来た道を戻り、知らぬ間に神社に辿り着き、
大吉山展望台と書かれた間違いない道を発見しやっと大吉山展望台を目指す事が出来た。

 

もし、ここが県境だったとしたら、県と県を行ったりきたりするような、ぐねぐねした山道を登りやっとの思いで、展望台に辿り着いた。

意外にも先客は2グループいた。
男性が1人と女性が2人いて、そのうちの男女1人ずつが三脚を立て熱心に展望台から見下ろせる街を撮っていた。

余計な話だが、無口で不細工な割に人恋しくなる私は、男が好きだ。
何故かと言うと、何も怪しまれず安心して話す事が出来る存在が男だからだ。

しかし、その男の人の邪魔にならないように後ろで待機していると早々に道具を片付け下山の準備をしてしまった。

なんてこったと思った理由は、その人の撮った写真を観たいからだ。

前から写真を趣味としている私は、とにかく写真を趣味としている人と知り合いになりたいと思っていた。
どうしてもその人が撮った写真を観たかったのだか、その計画は始まることも無く終わった。

その後、まだ女の人が写真を撮っていたので、邪魔にならない位置で待っていた。
近づいたら怪しまれると思っていた私は、暗い中、ライトを当て下鴨アンティークを読んでいた。

が、そんな努力も空しく、残った1人は中々撮影が終わらない。
その女の人の連れもどこに行ったのか、中々戻ってこない。

もう、その人の写真で良いから観てみたいと勇気を出して近づき、写真を見せてくれませんかと言う事にした。

人間、携帯などの道具を持たないと普段より勇気も出るものだ。

「撮った写真、どこかSNSで観れませか?」

答えは無いようなものだった。
正確に答えは、あったけど、この国の言葉ではなかった。
恐らく中国語だろう。

突然、小さい頃の事を思い出す。
1990年ぐらいだったと思うが、そのころ親戚の親が中国の事を熱く語っていた。

これからは中国だから中国語を覚えておくと良いんだよ、と何度も得意気に言っていた記憶がある。
ちなみにその人が中国語を話している姿は人生で一度も見たことがない。

しかし、20年以上も経ってからその言葉を思い出す事になるなんて、中国語を覚えておくべきだった。
年上の人の言う事は聞いておくべきだ。

私がたじたじになっている時に、救いなのか、その女の人の連れが戻ってきた。
良く分からないが、きっとこの男の人は怪しいから、そろそろ帰ろうと言っていたのだと思う。
しばらくして、その二人は下山していった。

写真が趣味の友達は出来ず、撮った写真は観れず、怪しまれたが、しかし、これで私の番だ。

気が済むまで撮れる、頭の中で黄前久美子と高坂麗奈の姿が浮かび、曲は当然、松田彩人さんの意識の芽生えだ。

私は撮り続けた。別に特別な人間になれたわけでもないし、特別な写真が撮れたわけでもないが撮り続けた。

 

生きている中でもう2度とこの場所に来ないかと思うと、中々そこを離れるのには勇気が必要だった。
いくら写真に撮っても、その時に空気感はその場所でしか味わえないからだ。

せめてもの救いは、意識の芽生えと大吉山を頭の中でしっかりリンクしてきた事だ。

 

さて、帰ろう。

が、しかし、恐ろしい事に気付いた。帰り道が真っ暗なのだ。

前述の通り、私の右手には旧iPhoneのライトはあるが、多少塗装された山道とは言え、街灯1つない山は山でしかない。

昔、伊豆に住んでいた祖母が小さい頃の山道が怖かったとよく話していた事を思い出した。
あぁ、あの話はこれの事か……。

電車の中でイヤホンを両耳にし続けるとパニック気味になる私は音楽を聴く気にもならず、冷静に楽しい事を考えながら下山を始めた。

だが、おかしい、何度も何度もくねくねする道を降りていくのだが、どれだけ下っても終わる気がしない。

前も光で照らしても数メートル先までしか視えない。
後ろを振り向いても前方と同じように全く視えない。

あぁ、これはきっと異世界に通じているのだ、間違いない。
そう間違いないと思えるほど、その暗闇と下り道は永遠に続いた。

こんな事なら、あの男の人か女の人と一緒に下山していれば良かったと思っても今更戻れるわけでもない。
この人生は本当に後悔ばかりで、時間はいつも戻らない。

無事、こんな面白くもないブログを書き残せているという事は、異世界で書いていない限り、結果的に下山出来たわけなのだが、行く事がある人は、もう少し明るさを出せる文明機器を持っていくことをお勧めする。

 

 

 

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